広岡のコラム(No.005)

2026年7月9日木曜日

タゴールの詩から学べる人生の真実


●自殺を試みた後、命を救われたある男の話

自殺を試みた後、命を救われたある男が、ある日、フランクルに以下のような報告をした。

その男はピストルで自分の頭を打ち抜くために、町の郊外へ出かけようとした。すでに夜もだいぶ更けていたので市電はもはやなく、そのためにタクシーを拾わなければならない状況だった。

その時、その男はタクシー代など無駄遣いしたくないと躊躇した。死を直前にしてこのように躊躇した男は、ついに苦笑せざるをえなかった。死に直面してお金を惜しむなんて、自殺を決意している男には無意味なことに思え、その結果、自殺を取り止めたのである。

このように、人間が人生において「幸福」を求め、「迷い」から目覚めることを、タゴールはある詩の中で次のようにみごとに表現している。

私は眠り、夢を見る、
生きることが喜びだったら、と。
私は目覚め、気づく、
生きることは義務だ、と。
私は働く・・・するとほら、義務は喜びだった。(13-14頁)

●「幸せ」とは、「義務」と言われているものを達成した結果にすぎない

それゆえ、「生きる」ということはある意味で「義務」であり、たった一つの重要な「責務」なのであると私たちは理解できる。そしてなるほど人生には歓びもあるが、しかし人は歓びを得ようとすることも、歓びを「欲する」こともできない。

むしろ、歓びは自ら生ずるものにちがいない。結果が生ずるのと同じように、歓びも幸福もおのずと生ずるものである。だから「幸せ」は決して目標であるべきでないし、目標であってはならない。「幸せ」は目標であることもできず、結果にすぎない。

「幸せ」とは、タゴールの詩の中で「義務」と言われているものを達成した結果なのである。いずれにしても、「幸せ」とは、思いがけず転がり込むものにすぎず、けっして努力して得ることのできないものであるから、人が「幸せ」を求めようとすればすべてその努力は無に帰する。(14頁)

<引用・参考文献>
*imago総特集 ヴィクトール・E・フランクル共著、共訳、現代思想(4月増刊号)(青土社) 2013年3月 8~37頁。
「実存分析と時代の問題」 ヴィクトール・E・フランクル/竹内節+広岡義之訳
1946年12月28日、フランス・オーストリア大学会議におけるフランクルの講演より一部抜粋 13-14頁参照。

広岡のコラム(No.004)

2026年6月24日水曜日

フランクルがアウシュヴィッツ行きを決断したエピソード


●米国行きのビザの放棄を決断したフランクル

米国が第二次世界大戦に突入する直前、フランクルは米国への入国ビザを受けるために、ウィーンにある米国領事館に呼ばれた。

両親はフランクルのビザが交付されしだい、オーストリアを離れることを希望していたが、フランクル自身は、最後の瞬間に両親のもとを離れるべきかどうかで深く悩んだ。

なぜならフランクルには、両親がユダヤ人であるというだけの理由で、いずれ強制収容所に送り込まれるであろうことが判っていたからである。

ちょうどそのような時、フランクルは家のテーブルの上に、一片の大理石が置かれていることに気づき、父にそれが何であるかを尋ねた。父の説明によれば、その大理石は、ウィーンで一番大きいユダヤ教会が焼き払われたときに、彼の父が教会の焼け跡から見つけ出したものだという。

彼が家に持ち帰ったのは、その石片に旧約聖書の「十戒」がヘブル文字で刻まれていたからである。
フランクルが「十戒のうちのどの箇条ですか?」と父に真剣に尋ねると、父の答えは「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(旧約聖書、出エジプト記、20章12節、新共同訳聖書)であった。

そのときフランクルは自分の祖国オーストリアに両親と共に残り、そして米国行きのビザの放棄を決断したという。(1)

●人間は、決断を通して自分自身を決定づけて行く

フランクルがこうした「決断」をくだすことができたのは、その大理石にCaCO3(炭酸カルシウム)以上のものを見出したからである。こうした自らの切迫した経験をもとにフランクルは言う。

「人間は決断を避けることができない存在である。実存は必ず人間に決断を促すものである。(中略)人間は、こうした決断を通して自分自身を決定づけて行くのである。こうして人間は、絶えず自分自身を形成し、再形成していくのである」。(2)

このような人間理解はヤスパース(Karl Jaspers)のいう「決断」する存在を基盤としており、「衝動」に駆りたてられる存在を前提とする精神分析の立場と真っ向から対立する。

つまり「人格は実存的である」という場合、究極的な意味で人間は責任を持ち、自由であるということである。「決断する存在」としての人間の在り方は、精神分析のいう「衝動存在」とは正反対の人間理解である。

ここから、決断する実存的人間は責任をもちえるが、精神分析の捉える衝動的人間は責任をもち得ないと考えるのが妥当である。そのことをフランクルは次のように表現している。

「ほかならぬ意味と価値の世界、価値の尺度あるいはその軸点、あらゆる価値の段階の頂点、すなわち神が、人間の責任ということの中に同時に与えられている」(3)のである。
 

●人格は「快楽」を求めるのではなく「価値」を求めてゆく

フランクルの「実存分析」(ロゴセラピー)の観点においては、精神分析とは逆に、人格は「衝動」によって決定されるのではなく、「意味」によって方向づけられるものなのである。また人格は「快楽」を求めるのではなく「価値」を求めてゆくものである。

フランクルはフロイトの「性的衝動性」(リビドー)という精神分析的な概念も、アドラーの「社会的拘束性」(共同感情)という個人心理学的概念も、「愛のデカダン的・欠損的な様態」として退けたうえで、「愛」について次のように述べている。

「愛とはいついかなる場合にも我と汝との関係」であるが、「精神分析的な観点においては、この関係のうち『エス』だけが――つまり性愛だけが――残っているだけであり、一方個人心理学的な観点においては普遍的な社会性だけが (中略)残されている」(4)にすぎないとして、精神分析的および個人心理学的な「愛」の解釈を的はずれなものとして鋭く批判している。 
 
 註
(1)Cf. Viktor Emil Frankl, Psychotherapy and Existentialism,1967. p.34-35.  
フランクル著、高島博・長澤順治訳、『現代人の病――心理療法と実存哲学――』、丸善株式会社、1972年、45頁参照。
(2) Viktor Emil Frankl,op.cit. p.35. フランクル著、前掲書、46頁。
(3)Vgl.,Viktor Emil Frankl, Logos und Existenz: Drei Vorträge 1951 S.57.
フランクル著、佐野利勝・木村敏訳、『ロゴスと実存』「人格についての十の命題」、169頁。
(4) Viktor Emil Frankl,a.a.O.S.58. フランクル著、前掲書、169-170頁。

広岡のコラム(No.003)

2026年6月16日火曜日

実存分析と時代の問題


●人間は自分自身のことを決めることができる存在である

実存的に問題を提起するとはどういう意味でしょうか。現実に存在する問いでもって、質問者は自己自身を問うのです。つまり実存的な問いを問うとは人間を問うことなのです。(中略)包囲殲滅(せんめつ)戦や防空壕、強制収容所での大混乱のなかで、人間は真実を知ったのです。そこで万事において最も重要だったのが人間です。しかしながら人間とは何か。人間とはいつも決断する存在なのです。人間とは何であり、次の瞬間には何になるかを繰り返し決断するのです。人間には、天使にもなり悪魔にもなる可能性があります。なぜなら、私たちが知っていた人間、ひょっとすれば前の世代は知らなかった人間、その人間がガス室を造り出した存在だからです。しかしまた同時に、ラ・マルセイエーズもしくは祈りを唱えながら姿勢を正して、そのガス室に入っていった存在でもあるのです。

 

実存分析と時代の問題

ヴィクトール・E・フランクル/竹内節+広岡義之訳

1946年12月28日、フランス・オーストリア大学会議における講演

広岡のコラム(No.002)

2026年6月4日木曜日

『夜と霧』のエピソード


●「人生の意味」を見出しえた人間のみが、結果的に強制収容所から生還できた

『夜と霧』のなかにでてくる次のエピソードは、筆者にはひじょうに興味深く感じられた。約三年間の収容所での生活の始めから終わりまで、フランクルは一度も歯を磨くことができず、さらに食物の著しいヴィタミン不足に陥っていたもかかわらず、健康なとき以上のよい「歯肉」を維持していたという事実。また半年以上洗濯しない同じシャツを着て、しかも仕事で傷だらけの体であったにもかかわらず、一度も傷が化膿しなかったという事実をフランクルは紹介して、「ある心構え」さえ維持できれば、人間の肉体的・精神的強靭さが保たれることを証明している。つまり、人生に対する「前向きな心構え」を維持できた人間、言いかえれば、「未来の目的」「人生の意味」を見出しえた人間のみが、結果的に強制収容所から生還できたことを証明している。

広岡のコラム(No.001)

2026年5月11日月曜日

フランクルにおける「愛」と「良心」とのかかわり


●「責任」や「良心」は人間に無条件に属している事柄である

人間の「責任」や「良心」という原現象が、「決断する存在」としての人間存在に無条件に属している事柄であると言いうるならば、人間の実存的でかつ真正の「決断」は、いかなる場合にも非反省的であり、それゆえに無意識になされるものである。「良心」もまたその根源において「無意識」へ侵入してくると考えるフランクル(Viktor Emil Frankl,1905-1997)は、その意味で「良心」は非合理的かつ非論理的であり、さらに前論理的でさえあると考えた。なぜなら「あたかも前学問的な、また存在論的にはそれよりもさらに前に位する前論理的な存在理解というものがあるのと全く同様に、あらゆる顕現的な道徳に本質的に先行する前道徳的な価値理解というものがあるから」(1)である。

●「良心」とは本質的に直観的な一つの機能である

こうしたフランクルのものの考え方は、まだ十分な能力を身につけていない子どもたちに関わる教育者にとってもまた必須の心構えとなるだろう。なぜなら教育者こそが、子どもの中に潜む可能性を引き出すことを使命とする者だからである。特にそのなかでも子どもの「良心」を育成することこそ、今日の焦眉の課題であると言えよう。
「良心」が実現されるためのこの精神的な先取りは、「直観」――つまり「観る」という行為――のなかでのみ生ずる。ここで「良心」とは本質的に直観的な一つの機能であり、実現すべきものを先取りするために「良心」はまず直観しなければならない。この意味で「良心」は実際には非合理なものであると言えよう。「良心」と類似の「直観」の現象としてフランクルは「愛」をあげている。事実、「愛」もまた「直観」する以外には獲得する手立てがないからである。「愛」もまた「未だ存在していないもの」を観る行為に他ならない。

●直観する以外には獲得できない「愛」の本質

これとの関連で、ドイツの卓越した教育哲学者、ボルノー(Otto Friedrich Bollnow,1903-1991)は、フランクルと同様に「愛」の問題について、特に「教育愛」との関わりで次のように論じている。「教育愛」は、ギリシア的なエロスともキリスト教的なカリタスとも異なる。おそらく、「教育愛」とは端的に素朴な人間的な愛であり、根源的で自明な関係であるとボルノーは考えている。ボルノーの捉える教育愛の理解を通しても、フランクルのいう直観する以外には獲得できない「愛」の本質をわれわれは確認することができるのである。(3)
「良心」に対して開かれているのは、「これから存在すべきもの」であるが、他方「愛」が直観し開示するものは、「愛された汝」における価値の可能性である。別言すれば「愛」とは、「まさに愛されている人間が、まだ実現されていない人格的な可能性としてみずからの中に包蔵しているところのものである」。(4)
これとの関連で、フランクル研究者のトウィディ(Donald F. Tweedie,1926-)もまた、「愛される汝」について次のように述べている。「本当の意味で愛し合う二人にとって、愛とは、一人の相手以外を愛することのない、いわゆる、一夫一婦的な性質のものであるのは当然のことである。つまり、真の愛とは、愛する人の最高の価値へと向かう精神的な行為と考えられる」。(5)(傍点筆者)ここから「愛」の開示するものが、「愛された汝」における価値の可能性であることが傍証されよう。


(1) フランクル著、佐野利勝・木村敏訳、『識られざる神』(著作集⑦) みすず書房、1975年、33頁。
(3) ボルノー著、森昭、岡田渥美訳、『教育を支えるもの』、黎明書房、1980年、129頁~130頁参照。 
(4) フランクル著、『識られざる神』、35頁。
(5) ドナルド・トウィディ著、武田健訳、『フランクルの心理学』、みくに書店、1968年、196頁。